ときめき♡隠遁記

365日戦闘不能

『イマジナリー・ヒモボーイ』

街灯が道に落とす等間隔の光を数えながらあるいて、数えるのに飽きたら到着、そこがわたしのアパート。古びた狭い階段をカニのように体を開いて上り、鍵をガチャリと開ければ、ピンクの玄関マット、ビーズの暖簾、天使や兎の置き物とメキシコ十字架の盛り合わせ、壁に釘打ちして飾ったレースのワンピース、等々。すきなものという秩序で埋め尽くされた混沌が広がっている。廊下突き当たり、ワンルームを牛耳る簀の子ベッドに目をやり、わたしはおもわずあ、と声を出した。こぉくんが座っていた。

 

「おかえり、ミズコちゃん」

 

水子という名前は、気に入っている。さらさら流れて掴みどころの無い清廉な存在っぽい響きがあるから。わたしの素敵な名前を呼んだ後、こぉくんはふやりと笑って立ち上がった。こぉくんの動きに合わせて細い髪が揺れる。程よく引き締まっているけれど細身の部類に入る体躯は、やや大きめのスウェットの上下の中で泳いでいた。

 

「ただいま、こぉくん...きょうも疲れたよ、クレーム対応なのに人生相談の電話かけてくるひとがいてさぁ」

 

こぉくんは律儀にふんふんと頷いている。ひとしきり聞き終えた後、それは大変だったね、ミズコちゃん関係無いのにね、ねぇ晩ご飯は無水鍋だよ、早く食べよ、食べて栄養いっぱいになろうよなんて目をキラぴかさせてお鍋を火にかけるもんだから、わたしは呆れてしまう。こぉくんはわたしの憧れる水そのものかもしれない。だって、これといった特徴も無いし、実体すらも無いのだから。

 

そう、こぉくんはわたしのお遊びから生まれたイマジナリー・ヒモボーイなのだ。

 

今のやり取りも全て自己完結だし、真っ赤な重いお鍋の中身は今から用意しなければならない。こぉくんの面影がまだ意識にある内に、野菜やらなんやら具材をちゃきちゃき揃えてぽいぽいお鍋に入れていく。作業を終えてぼんやり煮えるのを待っていると、

 

「いい匂いだねぇ」

 

いつのまにか隣にいたこぉくんが、目を細めて湯気に顔を近づけていた。こぉくんはわたしが家に居る間だけ、時々居なくなり、そして時々現れる。もっとも、出現率を調整しているのはわたしだけれど。

お仕事はしていない、もちろん。この同棲生活はわたしの稼ぎが全てだ。とは言え、こぉくんは霞としての在り方に倣うなら、ご飯もお風呂も要らない。

一膳分の食器を華奢なミニテーブルに並べながら、わたしはこぉくんをじぃと見つめた。ハテナマークを浮かべて見つめ返してくるこぉくんは、随分深くて、ともすれば包み込まれそうで、それから酷く冷たい、まるで水のよう。

 

「どうしたの?ミズコちゃん」

「ううん、なんでもない...さ、食べよ」

 

ミトンをはめ、お鍋をコンロから下ろして向き直ったときには、もうこぉくんの姿は消えていた。わたしはちょっぴりの寂しさを感じながら、それもスパイスに加えるつもりで食卓につく。次こぉくんに会えるのはあしたかな。眠るときに星を駆ける羊を数えて貰おうかな。いや、髪を洗うときがいいな。

やっぱりイマジナリー・ヒモボーイは、シャンプーが得意でなくっちゃ。

 

 

おわり